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カルメン上演史(後編)

久保田雅人

前編では、日本での「カルメン」が公演された、演劇にスポットを当てました。後半では、オペラ「カルメン」の、日本人キャストによる日本初演の様子や、映画「カルメン」の上演の様子を見ていきます。


いよいよ日本人によるビゼーの「カルメン」日本初演

 

さて、世は浅草オペラ全盛期。ですが、そんな中で大事件が起こります。1919年、帝国劇場がロシア革命の難を逃れてきた白系ロシア人による「露西亜大歌劇團」(総勢約90名。歌手22名(ソプラノ6名、メゾ・ソプラノ2名、テノール6名、バリトン4名、バス4名)、バレエ5名、合唱20名、オーケストラ35名、代表者1名、指揮者2名、コンサートマスター 1名、舞台監督1名、衣装係1名)を招聘、日本での公演を行います。公演は91日から109日まで。帝國劇場を皮切りに、横浜ゲーテ座、神戸聚楽館、神戸体育館劇場、大阪市中央公会堂、京都市公会堂の各会場で、合計41回の公演が行われたのです。それは日本人にとって、本格的なグランド・オペラを体験した最初の機会となったといって良いでしょう。そのなかにはビゼーの「カルメン」も含まれていました(しかも上演回数ではダントツです)。

 

 

1919年「露西亜大歌劇團」日本公演 上演演目一覧

作曲者 作品名 原語 上演回数
ヴェルディ リゴレット  伊  2
ヴェルディ 椿姫 7
ヴェルディ アイーダ 6
マスカーニ カヴァレリア・ルスティカーナ 3
レオンカヴァッロ 道化師 3
プッチーニ トスカ 3
グノー ファウスト 6
ビゼー カルメン 8
ドリーブ ラクメ 2
ムソルグスキー ボリス・ゴドゥノフ 4

※ロシア語以外のオペラもすべてロシア語訳で上演された

 

ですので「カルメン」の日本初演は(ロシア語での上演ですが)、露西亜大歌劇團によるということになります。このことに最も刺激を受けたのは、おそらく浅草オペラの代表を自負していた浅草金龍館(浅草六区)のスタッフたちだったでしょう。それまで自分たちが勉強し、演じてきた歌劇が、その規模も技術もどれだけ貧弱だったかを、まざまざと見せつけられたのですから。

そこで浅草金龍館では、負けじとグランド・オペラへの挑戦を模索するようになります(それまでも、ヴェルディの「アイーダ」やモーツァルトの「魔笛」などもありましたが、いずれも短縮版で音楽的に演奏が難しい部分はカットするという、グランド・オペラとは呼べないものでした。このことが、後に「浅草オペラはまがい物のインチキ・オペラだ」という風評が立った一因になっています)。

そして選ばれたのがビゼーの「カルメン」でした。半年近い準備期間を経て、1922年3月20日~4月4日 大歌劇「カルメン」(1~2幕)、4月5日~4月20日 大歌劇「続カルメン」(3幕~4幕)の2回に分けて公演されました。浅草金龍館ではこの公演にあたり、「都新聞」に「カルメンは純歌劇の形式による日本最初の上演にして我が根岸大歌劇団一派が苦心清励ベストを盡くす空前無比の大歌劇なり」と鼻息も荒い広告を載せています。配役は、カルメン:清水静子、ホセ:田谷力三、エスカミリオ:清水金太郎、ミカエラ:安藤文子ほか、金龍館のオールスター・キャストと言っていいでしょう。

そしてその結果は超大入りの大成功。通常金龍館では10日間ごとのプログラムを組むのですが、あまりの大入りぶりに、日延べしなければならなくなったほどです。ちなみに、金龍館では1922年9月27日より再演します。また金龍館スタッフは1923年3月2日から30日まで地方巡業を行いますが、そこでもプログラムにも「カルメン」を入れています。

(出典:増井敬二著「浅草オペラ物語」平成2年 芸術現代社)

 

その当時、金龍館によく出入りしていて、後に劇作家となる高田保(1895 – 1952、著作権保護期間満了)が、晩年、この「カルメン」日本初演当時の金龍館の様子を、自叙伝「青春虚実」(昭和26年 創元社刊)のなかで書いています。長いですがその当時の空気がよく伝わってくるので紹介します。

 

金龍館の楽屋。入るとすぐ頭取部屋があり、小さな畳敷の上に、もと歌舞伎役者だった老人が、いつも背中を丸くして坐っていた。歌劇などという新しく生れ出た世界の中で、子役の頃からの歌舞伎の素養など何の口を利くものでもなかった。だから頭取と名前だけはいかめしかったが、ただ座の連中の出入りを見張っただけの、佗しい影であったにすぎない。がその佗しさなどには見返ることもなく、向い合った文芸部の室では伊庭孝、竹内平吉、佐々紅華、奥山貞吉などといふ連中が、声高に始終何かしらを論じ立てていたものである。歌劇の形式としてはヴェルディよりもむしろロッシーニかなどとこれは到底「浅草」の室気ではなかったろう。この連中はそこを自分たちのクラブともし、また研究室ともしていたのである。私はその後よその劇場にも行き、二三の劇団にも関係したのだが、との金龍館の文芸部ほどに活溌でもあり、権威もあった文芸部を知らない。

 浅草歌劇と、ことさら浅草の二字を上にのせるが、しかし真正のグランド・オペラがとにもかくにも日本人の手によって演出されたのはこの金龍館である。熱情をもって私はそれを主張することができる。ある日この文芸部で、やる気になればやれるじゃないかと誰かが言い出した。やる気になりましょうと石田一郎がいった。この石田というのは一座の役者たちの元締めのような役をしていた人である。やるというのはグランド・オペラのことだった。だが当時の一座には二部の合唱さへやる力がない。三部四部となったらどうするのか。選ばれたのはビゼーの「カルメン」だっだ。あれには五部の合唱がある!

私は二階の隅の狭い、稽古部屋を思い出す。三階へ上る細い階段の横だった。一寸した幕間があると、そこヘコーラスの男女たちが集った。竹内平吉がピアノを叩き、一斉にみんなが歌った。グランド・オペラヘの突進が始まったのである。ユニゾンからデュエットヘ、デュエッ卜からトリオへ、やがてカルテッ卜までに辿りつくのにどれだけの熱心と努力とそして日数とが重ねられたことだったろう。日数だけは数えることができる。それはぶっ通して三ヶ月だった。何としてもその間に、昼夜二回、物日(祝い事や祭りなどがある日)には三回の興行があったのである。九十日は決して長いとはいえない。

 コーラスの見込みが立つと同時に、プリンシパルの稽古が始まった。これが一ヶ月はかかったろう。やがて全員がとなると、その狭い稽古部屋ではやれなくなった。毎夜興行が終えると一同舞台へ集った。遂に舞台稽古。興行時間の都合から全四幕を二つに分けることになったのだが、一幕のそれに一晩の徹夜をした。完全な徹夜を二晩と重ねて、ようやっと初日の幕をあけた。

 このときのことをおもうと、今でも私はすこし感傷的になる。われわれの手で日本最初のグランド・オペラだ。ビゼーの「カルメン」だ。世界的の名曲だ。遂にオーケストラがその前奏曲を鳴らし出した。徹夜ですっかり眼を血走らせてしまった楽手諸君が、吸いつくような眼で楽譜を見つめている。指揮者の篠原正雄君(後にキング・レコードの音楽監督となる)が緊張しきった形でタクトを振っている! 私は客席へ廻ってただ一途に胸を躍らせていた.

 と、このとき、楡快な、滑稽があったのである。前奏曲が続く、がもちろん幕はまだ上らない。しかしそんな長い前奏など、かつて浅草の小屋にはなかったことなのだ。見物たちが苛れだしてしまった。とうとう、最前列にいた職人体の男が立上って、

 「やい、楽隊の大将! 踊ってばかりいねえで早く幕をあけろい!」

 篠原君の首筋を後ろから引っ張って揺ぶったのである。観客の要求に答へるなどというが、その頃の金龍館は、そんなものなど眼中に入れなかったといっていい。観客の要求よりは、自分たちの要求が生かしたかったのだ。見物にわかろうがわかるまいが、そんなことはどうだっていい。

 最後の幕が下りたとき、私は飛ぶようにして楽屋へ戻っていた。出来たぞと思う感激が、到底客席に一人でいることなど許さなかったからである.がそこへ飛込むと誰もがしいんとして静まり返っていた.後で気がつけばそのとき、破れかえるような拍手が客席で起っていたのだが、誰一人としてそれへ耳を貸すものはなかったのだ、よかった! とただ重荷をやっと下したような顔を、お互いに見合していただけだったのだ。と誰かが鼻を啜った。泣いていたのである。

(「とばした紙鳶」より一部引用・追記。現代仮名遣いに直しました)

 

洋画「カルメン」の登場

 

金龍館での「カルメン」の大成功に刺激されたのが活動写真館です。実は1915年に米パラマウント・ピクチャー社が、当時のニューヨーク、メトロポリタン歌劇場のプリマ・ドンナとして活躍していたジェラルディン・ファーラーをカルメンに起用した映画「カルメン」(制作・監督:セシル・B・デミル)を撮っていたのですが、お倉になっていたのです(現在もフィルムは存在し、DVDにもなっています)。で、二匹目のドジョウを狙って、あわてて活動写真館が、この洋画「カルメン」を上演します。1922年4月29日封切。なんともまあ、「続カルメン」の楽日のわずか9日後という最高のタイミングですが、しかしとんでもない早さです!

オペラでは歌手がスターですが、活動写真では活動弁士がスターです。オペラでは、ソリスト、コーラス、オーケストラと準備に時間が必要ですが、その点活動写真は、アンサンブルと活動弁士が準備すれば良いだけなので、こんな芸当じみた封切スケジュールが可能だったのでしょう。

そうして、この動きにレコード会社も反応します。オペラの録音は当時の技術的に不可能でした(そもそも、オペラのキャスト全員が入れるような広いスタジオはないですし、広いスタジオだとすべての音は拾えませんし、そんな大人数がフォルテを奏でれば、録音された音は簡単に音が割れてしまうしで、技術的にも実現不可能です)。しかし、活動弁士一人と10人程度のオケの伴奏なら狭いスタジオでもOKだし、録音も問題ありません。

そこで作られたのが、洋画「カルメン」の映画説明レコードです。では、この洋画「カルメン」の映画説明のレコードを聞いてください。ところでこのレコードの聞き所は、弁士の名調子もさることながら、最大の聞きどころは、伴奏をしている楽隊の演奏だと思います。そりゃあ今日の物差しで言えば酷いものですが、これが当時のアンサンブルの平均的な技倆で、このような演奏が当時の活動写真館に響いていたのだろうと思うと資料的価値という点でも重要ですが、こういう演奏を当時の観客が西洋音楽として聽いていたと考えると、なにか愛らしい気もしてきます。あ、「闘牛士の歌」もツボでした。

 

 

 

ちなみに寶塚では・・・

 

最後に、寶塚の動きを見てみましょう。

1924年7月19日、寶塚大劇場が開場します。4,000人を収容することのできる、当時としては勿論、現代でも驚くべきキャパシティです(現代のコンサートホールでも通常2,500名程度です)。その前年10月には、ロシアから、オーストリア出身の指揮者ヨゼフ・ラスカ(1886 – 1964)が、ロシア革命から逃れて寶塚にやってきます。ラスカは寶塚交響楽団の指揮者に就任し、同楽団の質的向上に尽力します(1935年まで。最終的には日本にブルックナーの交響曲を紹介するまでになります)。

そんな中、寶塚でも「カルメン」を取り上げることになり、岸田辰彌(1892 – 1944、麗子像で知られる岸田劉生の弟にあたる)が脚本を書き、1925年8月の雪組公演(寶塚大劇場)で歌劇「カルメン」が初めて演じられます。ただし、どこまでビゼーのオペラに近いかは不明です。主なキャストは、有明月子(有明休演時の代役:巽壽美子)のカルメン、白妙衣子のホセ、高峰妙子のエスカミロ、夢路すみ子のミカエラという配役でした。その翌年4月には寶塚少女歌劇雪組東京公演(有楽町 邦楽座)で、歌劇「カルメン」が演じられます。キャストは有明月子のカルメン、白妙衣子のホセ、高峰妙子のエスカミロ、ミカエラ役は夢路すみ子の退団により網代木渡に変更になりました。ただ、網代木への負担が増大することを恐れたのでしょうか、岸井辰彌は台本を改作し、短縮版で上演しています。このためストーリーがわかりにくくなり、評判は良くなかったようです。

 

 

(参考文献)

靑春虚實 高田保 創元社 1951年

舞踏に死す ミュージカルの女王・高木徳子 吉武輝子 文藝春秋 1985年

私がカルメン マダム徳子の浅草オペラ 曽田秀彦 晶文社 1989年

浅草オペラ物語 増井敬二 芸術現代社 1990年

日本レコード文化史 倉田喜弘 東京書籍 1992年

日本オペラ史 ~1952年 増井敬二著 昭和音楽大学オペラ研究所編 水曜社 2003年

その他、関連のホームページ多数

 

―完―