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カルメン上演史(前編)

久保田雅人

 

カルメンといえばメリメ原作の小説ですが、それよりはむしろ、ビゼー作曲のオペラと言った方が有名でしょう。仮に十人に「有名なオペラは?」と訊けば、十人とも「カルメン」を抜かすことはないでしょう。日本でもオペラ「カルメン」は常に人気だし、そのせいか、「カルメン」といえば自由奔放な女性を表す言葉にもなっています(「カルメン故郷に帰る(1951年松竹大船撮影所作品。監督:木下恵介、主演:高峰秀子。日本初の総天然色映画としても有名)」なんて映画もあるし、ピンクレディーは「カルメン'77」で66万枚の大ヒットを飛ばしています)。そんな「カルメン」なのですが、では一体いつ頃から日本で「カルメン」が広く知られるようになったのでしょう? そんな漠然とした疑問をちょっと調べてみました。


始まりは高木徳子? それとも 河合澄子?

 

いろいろ調べてみましたが、どうやら河合澄子の方が早いようです。ですが、話の流れを整理するため、「問題の女」高木徳子の方から書いていこうと思います。

 

高木徳子(旧姓永井、1891 – 1919)1906年に15歳で高木陳平と結婚し渡米、11月末ニューヨークに到着します。アメリカで夫婦はマジシャンになったり、徳子は歌やダンスを勉強して、歌手やダンサーとして活躍するようになったり、映画にも出演したりと(徳子はアメリカで映画に出演した最初の日本人になります)、ショービズの世界にどっぷりハマっていきます。この頃から、陳平は徳子のマネージャーとなり、徳子が前面に出るようになりました。19141月にアメリカに見切りをつけロンドンに渡り、ウエスト・エンドにあるザ・トロカデロというミュージック・ホールに出演し、好評を得ます。そんなおり、ロシア行きの話が出てモスクワまで行きますが、第一次世界大戦が勃発。ロシアの参戦により、身に危険を感じた夫妻は急ぎ日本に帰国します(10月横浜着)。

 

これが運命の分かれ目となります。これまでの欧米での生活では、男性と女性の立場が比較的近く、夫妻もそのような生活を送っていたのでしたが、日本に帰ったら途端に、陳平は暴力を伴う亭主関白ぶりを発揮するようになったのです。これに嫌気のさした徳子は、遂に19163月、離婚を求める裁判を起こします。当時、妻から離婚を求め訴えるなど、常識から考えて「あり得ない」ことでした。結局、裁判には負けたものの徳子の離婚の意思は固く、また陳平が徳子の活動を荒くれ者を使って妨害したりしたことから、状況は泥沼化していきます。結局、191810月、徳子が松竹専属になることで松竹が間に入り、当時の金額で3000円(現代の金額に換算すると、軽く1000万円を超すそうです)の慰謝料を陳平に払うことで離婚が成立し、旧姓の永井徳子に戻ります。そんなゴタゴタにより、徳子には「問題の女」というレッテルが貼られてしまいます。

 

 

話は離婚裁判を起こした頃に遡ります。徳子が欧米で経験したショービズの世界を日本でも実現しようと、ピアニスト澤田柳吉(1886 – 1936)の紹介で出会った伊庭孝(1887 – 1937、後に音楽評論家となる)とともに、歌舞劇(今で言うミュージカルに近いものだそうです)「女軍出征」を制作、劇団「世界的バラエチー一座(高木徳子一座とも言われた)」を旗揚げし、19171月、浅草常盤座で歌舞劇「女軍出征」を上演します。「問題の女現る!」との宣伝も手伝いこれが大当たり。ここに浅草オペラの時代が幕を開けます。そして19189月、有楽座で伊庭孝脚色の悲劇「カルメン」を上演。しかしこれは伊庭孝がビゼーのカルメンとメリメの小説をブレンドしたもので、ビゼーのカルメンとはかなり異なるもののようです。

(オッフェンバック「天国と地獄」での高木徳子(中央女性)1917~19年)

 

さて、一方の河合澄子(1893 - ?)は、高木徳子一座に在籍していたオペラ女優ですが、1917年2月下旬に他の多くのメンバーとともに高木徳子一座をドロンし、大阪で傑作座を結成します。ですが、傑作座は同年5月に解散してしまいます。

 

その後同年秋、佐々紅華(1886 – 1961、作曲家としても知られる。代表曲「君恋し」)、石井漠(1886 – 1962、舞踏家)らが主催する東京歌劇座に参加(東京歌劇座の第一回公演は同年10月、浅草日本館)。ここで大人気を博し、当時としては珍しい、今で言うファン・クラブまでできました。しかし、このファン・クラブの大半が勉学に勤しむべき中学生であったことが問題視され、翌年1月下旬にファン・クラブの中学生30数名が警察の取り調べを受けます。新聞は、その原因が澄子に代表されるオペラ女優たちの挑発的演技と生活態度とし、槍玉に挙げます。

 

批判の矢面に立たされた澄子は、東京歌劇座に居ずらくなり退団します。そして、獏与太平(1894 – 1961、のちに映画監督になる)とともに「日本バンドマン一座」を結成、1918年3月に浅草御園座で、歌劇「カーメン」を上演します。しかしこれはビゼーのカルメンを自由に作編曲したもので、オリジナルのビゼーのカルメンからは程遠いものだったようです。(ちなみにですが、同様の手法でリヒャルト・シュトラウスの「サロメ」も舞台にかけています。しかし、有名な「7つのヴェールの踊り」とか、一体どうやったんでしょう? 当時のオーケストラの技倆じゃ絶対演奏できないですよ、あの難曲。(写真は東京歌劇座時代「女軍出征」でセーラーを演じた河合澄子)

 

松井須磨子のカルメン

 

 

次は、日本で初の、歌手としてもヒットを飛ばした女優、松井須磨子(1886 – 1919)です。松井須磨子は1909年、坪内逍遥(1859 – 1935)の文芸協会演劇研究所第1期生となり、1911年にはイプセン原作、島村抱月(1871 – 1918)訳の『人形の家』の主人公ノラを演じて認められます。しかし1913年、妻子ある抱月と須磨子の不倫が発覚して、逍遥と抱月との関係が悪化します。その結果、抱月は文芸協会を脱退、須磨子は研究所を退所処分となりました。

 

そこで抱月と須磨子は、劇団「藝術座」を立ち上げます。当初芸術至上主義を掲げ、経済的に難しい時期もありましたが、1914年トルストイ原作抱月訳の「復活」を上演、これが大当たりします。理由は抱月の書生をしていた中山晋平が作曲、抱月と相馬御風(1883 – 1950)が作詞した、劇中歌「カチューシャの唄」が大受けしたこと。小首をかしげて歌う須磨子に観客はみな「やられ」、町中に老若男女が歌う「カチューシャか~わ~い~~や・・・」という歌声が溢れます。ちなみに、須磨子が京都オリエントレコードに吹き込んだ「カチューシャの唄」のレコードは2万枚売れたそうです(当時は5千枚売れれば大ヒットだったそうで、このヒットで経営が傾いていたオリエントレコードは、息を吹き返したそうです)。その後も「ゴンドラの唄(いのち短し 恋せよおとめ・・・、後に映画「生きる」(1952年 監督:黒澤明)でも使われています)」「さすらいの唄(行こか戻ろか オーロラの下を・・・)」など劇中歌路線で大ヒットを連発します。

 

ですが、1918年に須磨子が当時流行していたスペイン風邪(インフルエンザ)に罹ってしまいます。恋人の抱月は感染リスクも厭わず、懸命に須磨子の介抱にあたります。その甲斐もあってか須磨子は回復しますが、今度は抱月がスペイン風邪に感染してしまいます。須磨子の懸命な介抱も虚しく、抱月は急性肺炎を併発、115日に急死します。このことは須磨子に大きなショックを与えます。自分がスペイン風邪に罹ったことで抱月を死なせてしまったと、須磨子は激しく自分を責めます。その結果、翌1919年、抱月の四十九日が過ぎた、ちょうど抱月の2ヶ月目の月命日にあたる15日、須磨子は首吊自殺します。その前日まで演じていた須磨子の最後の公演演目が有楽座での「カルメン」でした。こちらの「カルメン」もビゼーとは全く関係ありません。

(写真左の注釈)

故島村抱月氏と共に、『藝術座』を組織して天禀の技能を發揮し我が新劇壇の第一人者とした江湖賞讃を博したる松井須磨子事小林まさ子は大正七年十一月五日多年恩師として畏敬をし戀人として切愛したる島村氏の突然なる死去に遭ひてより痛くも人生を悲觀し日夜怏々として樂しまざるの有樣であったが翌八年一月五日即ち島村氏命日の拂暁、日常彼女の起伏したる牛込區横寺町の藝術俱濼部樓上演伎場の背景室に於いて梁に緋縮緬の細帯を懸け一糸亂さず縊死を遂げた寫真右は須磨子が自殺の前日まで有樂座に出演扮装ししたる、洋劇カルメン、左は自殺の場所で天井に見ゆる梁に帯をかけ下の四角な臺に上りて縊死したのである。また上段は個人の素顔である

(出典:歴史写真 大正82月号 国立国会図書館所蔵)

 

 

須磨子の後継となった中山歌子

 

須磨子の自殺で困ったのが残された芸術座の面々です。指導者と看板女優の両方を、ほぼ一遍に失ったのですから、この損失は計り知れません。しかし食べるためには、なんとかして稼がなければいけません。そのためには上演を存続させねばならない。そこで、まず劇団の名称を「新藝術座」と改め悪いイメージを払拭しようとしました。そして須磨子の代わりに、帝国劇場歌劇部第一回生だった中山歌子(1893 – 1928)を迎えて、「カルメン」の続演をすることにしたのです。

さて。ここで、いよいよレコードが登場します。この中山歌子をカルメンとする新藝術座によるレコード2枚4面が、ニッポノホン(現:日本コロムビア)によって録音されました。大正8年5月の新譜として発売されます。

 

(カルメンを演じる中山歌子)

 

番号 タイトル セリフ 演者
3475 カルメン 酒場の唄 中山歌子 外新藝術座員
3476 カルメン 煙草のめのめの歌 中山歌子 外新藝術座員
3477 カルメン リザス酒場 中山歌子 中井哲 新藝術座員
3478  カルメン 恋の鳥の歌  中山歌子(中井哲)

※すべて作曲は中山晋平、作詞は北原白秋。ピアノはおそらく中山晋平

 

では、これら4面をお聞きください(台詞も入っていますので、わずかですが、芝居の雰囲気も伝わってくると思います。「恋の鳥の歌」とか、個人的には、これが「カルメン」だと言われると、ちょっと頭が痛くなります)。

 

ーカルメン上演史(前編)完ー