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大正時代のメディア・ミックス

久保田雅人


今からおおよそ20~30年前、「メディア・ミックス」という言葉が流行りました。意味は、複数のメディアを有機的に結びつけることで、ヒットを作り出そうという販売手法です。具体的なものだと、例えばCMソングやドラマのテーマソングがあります。CMソングで言えば、CMで使われることによって、一般大衆が繰り返し使われた歌を耳にすることで、その歌をヒットさせよう(例:久保田早紀「異邦人」が三洋電機の企業CMに使われたことでヒットした)、またはその逆に有名歌手による楽曲がドラマなどのテーマソングに使われ、番組のヒットに繋がった(例:大瀧詠一「君は天然色」がTVアニメ「かくしごと」のエンディングに起用され、話題となった)というものです。

しかし、ことさらに「メディア・ミックス」と言わないまでも、昔から「メディア・ミックス」はありました。そこで、「籠の鳥」を事例に、大正時代のメディア・ミックスを見てゆきたいと思います。


大正10年ころ、一つの歌が作られました。題名は「籠の鳥」。千野かほる作詞(千野かほると他2名による合作という説もある)、鳥取春陽作曲によるものでした。この「籠の鳥」は、不倫をテーマにした男女による掛け合いの歌で、バイオリン演歌の演歌師によって盛んに演奏され、全国的に広く歌われるようになりました。歌詞を下に記します。

(歌詞は演者によって微妙に異なります。ここでは、下に挙げたレコード音源から歌詞を拾いました)。

 

逢いたさ見たさに

怖さも忘れ

暗い夜道をただ一人

 

逢いに来たのに

なぜ出てこない

僕の呼ぶ声忘れたか

 

あなたの呼ぶ声

忘れはせぬが

出るに出られぬ籠の鳥

 

籠の鳥でも

意地ある鳥は

人目忍んで逢いに来る

 

人目忍べば

世間の人は

怪しい女と指ささる

 

世間の人よ

笑わば笑え

ともに恋した仲ぢゃもの

 

ともに恋した

二人の仲も

今は逢うさえままならぬ

  

ままにならぬは

浮世の定め

無理から逢うのが恋ぢゃもの

 

逢うて話して

別れる時は

いつも涙が落ちてくる

 

落ちる涙は

まことか嘘か

女心のわからない

 

嘘に涙は

出されぬものを

ほんに悲しい籠の鳥

 

(下は当時のレコードの音源です。ご興味のある方はどうぞ)


 で、これに目をつけたのが映画会社です。当時の映画会社の営業戦略といえば「流行っている歌や事柄を下敷きに活動写真を作る、いわゆる『二匹目の泥鰌』を狙う」というものでした。流行っているものをネタに映画を作るのですから、空振りに終わるリスクを回避できるわけです。そうして大正13年、帝國キネマ芦屋撮影所によって、悲恋物語となった映画「籠の鳥」(監督:松本英一)が制作され、同年8月14日、大阪芦辺劇場(千日前)で封切られます。あらすじを、当時の新聞記事から拾います。

番頭の豊助(若井信夫)と許嫁になっている修造の娘お糸(澤蘭子)は、ふとした機会から知り合った学生上山文雄(里見明)と恋仲に落ちる。しかしこれは到底彼女の家庭が許さなかった。豊助とお糸の結婚の式が挙げられる夜が来た。愛せざる男との結婚ーー彼女は明らかに悶えた。晴れ着を纏ったまま、彼女は家を抜け出し、ついに死の淵に赴くーーかくて自由を奪われた籠の鳥は広い世界へと旅立つ(大阪朝日新聞 大正13年8月30日。現代仮名遣いに直しました。写真はお糸を演じた澤蘭子(1903 - 2003)。1928年当時は、京都の日活大将軍撮影所に所属していた。)

で、その結果は5週続映の大ヒットです。このヒットを受けて、日活、松竹も「籠の鳥」の映画を作ります。「日本映画データベース」(http://www.jmdb.ne.jp/)で検索すると、当時の関連作品として次のような映画が挙がってきます。

  • 籠の鳥(帝國キネマ芦屋撮影所、8/14封切)
  • 籠の鳥姉妹篇 恋慕小唄(日活(京都撮影所第二部) 、9/20封切)
  • 新籠の鳥(日活(京都撮影所第二部)、9/26封切)
  • 小唄集 第三篇 籠の鳥(松竹キネマ(蒲田撮影所) 、10/1封切)
  • 続籠の鳥(帝國キネマ芦屋撮影所、10/15封切)

こうしてみると、「籠の鳥姉妹篇 恋慕小唄」の封切が「籠の鳥」封切のわずか一ヶ月後。帝國キネマにしても、続編の封切が二ヶ月後ですから、当時の映画の作り方は、かなりの即席だったことがうかがえます。

 

では、映画「籠の鳥」大ヒットしたことで起こったエピソードを2つほどご紹介します。

 

映画「籠の鳥」の大ヒットを受けて、大阪や神戸では、演劇のネタにもされたようです。そこでは歌川八重子が演じるカフェーの女給が、劇中で「籠の鳥」を歌うというのがウケて、街のあちこちで老若男女が「籠の鳥」を口ずさむようになります。その様子に当時の広島県学務課では、

 

俗謡「籠の鳥」は非常に哀調を帯び、かつ牢屋にある婦人の開放とか、自由恋愛思想とかを意味するので、昨今政府が一生懸命になっている国民精神の作興に悪い影響を及ぼし、殊に之を小学生以下に口ずさましむるか如きはその弊害最も甚大なり(大阪朝日新聞 大正13年10月15日)

 

という理由で、県下の郡市長と中学校校長に通達を出すという(実際に出されたかは不明)。明治末期からの、平塚らいてうに代表される女性解放運動もあって(この女性解放運動が共産主義運動とリンクする動きも見せていたこともあり)、当局がかなり女性解放運動に神経質になっていることが伺えます。

 

 もう一つは、報知新聞の記事です。こちらは、籠の鳥だけではなく、同じような小唄を下敷きにした映画が多く作られ、その幕間に、活動写真館の専属歌手とともに、観客がそのような小唄を合唱することが問題視された、という記事です。

 

活動写真館内で映画化された小唄集を上映し、オーケストラにつれ観衆まで一緒になって、廃頽的、刹那主義的な歌を合唱することは、児童教育上及び一般風紀上面白くないとあって、警視庁保安部ではこれを取り締まることとなり、今後は活動館内で小唄を歌うことは絶対に禁止することとなった(報知新聞 大正13年11月9日)。

 

逆に考えれば、それまで活動写真館が、籠の鳥などの小唄を広める場としての役割を担っていたことがわかります。

 

さて、このような動きに目をつけたのがレコード会社です。人気の出た小唄をレコード化すれば儲かる、というなんとも安直な商人根性です。「籠の鳥」のレコード(大正13年に発売されたもの)は、その一部を紹介すると、

  • 寺井金春(7月新譜 書生節、ニットー)
  • 横尾晩秋(7月新譜 書生節、東亜)
  • 瀧静調(9月新譜 流行唄、アサヒ)
  • 鳥取春陽(9月新譜 新小唄、帝國蓄音器)
  • 南地力松(10月新譜 小唄、ニットー)
  • 平辰席金八(10月新譜 流行小唄、帝國蓄音器)

などがあります。そして面白いのは、これらのレコードの発売が、大正13年の封切前の7月から10月までの間であり、必ずしも映画がヒットしたからレコードが作られたというわけではない、ということです。ここには相互作用があったと考えるほうが自然でしょう。とすれば、レコード化によって、活動写真の人気も後押しされた、つまり意図したものではないけれど、結果的にメディア・ミックスが出来上がっていた、ということになるのではないでしょうか。

 

さて、レコード化で面白いのは「映画劇」「映画説明」というレコードです。映画劇は、映画のあらすじを、映画に出演した女優や俳優に演じさせ、それをレコードにするというものです。当時は無声映画(サイレント)ですから、そこに出ている女優や俳優がどんな声なのか、わかる訳もありません。その女優や俳優の声が聞けるのですから、これはエキサイティングな体験だったのではないでしょうか。映画説明はあらすじを女優や俳優ではなく、活動弁士に語らせるというものです。現代の我々にとっては、活動弁士がどんな調子で語っていたのかがわかる、貴重な資料となっています。

 

というわけで、帝国キネマの「籠の鳥」にも映画劇レコードがあります。京都オリエントレコードが大正13年9月新譜で発売したものです。

面白いのは、活動写真「籠の鳥」で監督をつとめた松本英一が指揮(演技指導)を行っていることです。所作の指導をやってるくらいだから、声の演技も指導できるだろうという、なんとも安直な発想が見て取れます。

 

では、実際の映画劇とはどういうものなのか、聴いてみてください。残念ながら「籠の鳥」のレコードは手元にないのですが(国立国会図書館のデジタルコレクションに収められています)、同年10月15日に封切られた「續籠の鳥」の映画劇(題名が「後編籠の鳥」になっている)のレコードがありますので、それをお聞きください。